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露土戦争(ろとせんそう)は、1568年から1570年にかけて、ロシア・ツァーリ国とオスマン帝国との間で行われた戦争である。オスマン帝国側の資料ではアストラハン遠征と呼ばれる。アストラハン・ハン国の首都であったアストラハンを巡ってロシア・ツァーリ国とオスマン帝国が対立した。1556年、ロシア・ツァーリ国のイヴァン4世はアストラハン・ハン国を征服し、ヴォルガ川を見下ろす急傾斜な丘の上に新しい砦を建築した。一方、オスマン帝国のスルターン・セリム2世はバルカン半島の大部分を支配下としていた。このロシアとオスマン帝国の初の戦争は、オスマン帝国の崩壊まで続く長く連続的な戦争の幕開けでもあった。 ==背景== クリミア・ハン国を巡るオスマン帝国の動きによってオスマン帝国とロシアとの関係は悪化していった。ジョチ・ウルスから独立してクリミア・ハン国を建てたが1466年に死亡した後、後継者争いによる内紛が起き、1475年にオスマン帝国のスルターン・メフメト2世はクリミア・ハン国に軍事介入を行った。結果、独自の外交権と多くの自由は与えられていたものの、クリミア・ハン国はオスマン帝国の従属国となった。それはクリミア・ハン国が1441年に建国してからわずか35年後のことだった。同年、オスマン帝国はクリミア半島にあるジェノヴァ共和国の植民地を征服してクリミア・ハン国に併合し、黒海を支配下に置いた。黒海がオスマン帝国の支配下となったことでロシア帝国は数多くの交易ルートを失い、さらに、アゾフやフェオドシヤのロシア商人たちは迫害された。15世紀の後半になると、困難な外交交渉の末にロシアとの取引が再開され、1513年にはモスクワ大公ヴァシーリー3世はロシア大使をオスマン帝国の首都コンスタンティノープルに送った。リトアニア大公国とクリミア・ハン国の同盟のためにオスマン帝国のスルターンの説得を試みたが、効果はなかった。スルターンはクリミア・タタール人にのみロシア人への攻撃を禁止した。 しかし、ロシア・ツァーリ国のイヴァン4世は1552年にカザン・ハン国、1556年にはアストラハン・ハン国を征服、併合した。オスマン帝国のスルターンは、クリミア・タタール人のスルターンをロシアに併合された2つのハン国の合法的な所有者とし、黄金時代を迎えていたクリミア・ハン国はモスクワを攻撃した。1556年にはクリミア・タタール人はモスクワに軍隊を率い侵攻したが、ロシア軍指揮官のリーシスキーに敗れ、ザポロージャ・コサックの助けを借りてドニエプル川の下流へと引き下がった。1558年、ロシア・ツァーリ国軍の指揮官ダニエルはクリミアでの戦争で、錨を下ろして停泊していたオスマン帝国の船を数隻破壊した。1563年、スルターンのスレイマン1世はアストラハン奪回計画を立てた。クリミア・タタール人のスルターンは黒海の北側にまでオスマン帝国の影響力が強く及ぶことを嫌い、1569年まで計画の実行をオスマン人たちにためらわせた。1566年にスレイマン1世は死亡したが、計画は父の後を継ぎスルターンとなったセリム2世に引き継がれた。 アストラハンは1558年、ロシア・ツァーリ国によって荒廃させられた首都アストラカン(:en:Xacitarxan) の後継として作られ、同年、砦が建てられた。外部の攻撃から守るため土塁が積まれた。セリム2世はアストラハンの都市と砦を攻略するため、カスピ海から直接物資を運び込めるようにヴォルガ川とドン川を結ぶ運河の建設を計画した(後のヴォルガ・ドン運河)。それは、イスラームの領域を黒海の北側にまで広げるということだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「露土戦争 (1568年-1570年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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